私の平家物語

平家物語への私見である

私の平家物語

多田蔵人行綱の裏切りにより、新大納言成親は捕まり,西光法師も法住寺へ向かう途中
平家の侍たちによって馬から引きずり降ろされる。
清盛は西光の顔を踏みつける。西光は顔色ひとつ変えない。
「あなたが太政大臣に成りあがったのは過分です」と西光は遠慮なく言う。
清盛は激高する。
家来が命を受けて、手足をはさみ、さまざまな手段で痛めつけた。
間もなく清盛は「そいつの口をさけ」と命令する。
西光は口をさかれて斬り殺されるのである。ここでも清盛の冷血な性格がよく出ている場面である。


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祇王

「現世の栄華は夢の中で夢を見るようで儚いものです。どんなに裕福になり栄えても
何にもなりません」と言う仏御前の言葉は胸に染み込むように深い。
「一緒に往生を願いましょう」と言って祇王、母と自、妹、仏御前の4人は同じところにこもって念仏を唱える。
死期に遅い早いの差はあったが、4人の尼たちはみんな、往生の本望を遂げたのである。
ここまで平家物語を読んでくると、冒頭の驕り高ぶった人も、春の夢のように儚いものであると言う言葉からくる滅びの文学のイメージとはかなりかけ離れているようである。
仏教の深い所を述べているわけで、読胸側も救いを感じるわけである。
この祇王の章では人間の生き方を述べているので、冒頭の滅びのイメージは消えてしまうのである。


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仏御前

ある日、粗末な庵に誰かが訪ねてくる。竹の網戸を開けると仏御前であった。
尼の姿になっていたので祇王は驚く。自分を奈落の底へ突き落した本人であったから許せないわけだが、祇王は相手を責めることなく、許すのである。
祇王の心の広さ、優しさは胸を打つものがある。